• 検索結果がありません。

雲|;1::■

ドキュメント内 著者 村串 仁三郎 (ページ 48-77)

鰹i;|寵

0.81 0.4 6.0’

,oool1oool1oOo '000|,oOOl1oMl

計’100.01100.0’ 100.0

(注)友子の取立面附より作成。その他は立会人で,親分となっている重複者は除いてある。

48

実に示すものであった。 (Ⅳ) タルノ資格ヲ有シ、幕府ヨリ允許サレタル鉱夫ノ特権ヲ享有スルナリ」(傍点引用者)と記している。以上のように、友子制度は、横の組織は存在しないが、機能の面で共通性をもち、友子のメンバーは、全国等しく鉱山に迎え入れられたのである。jもっとjも、明治前期の鉱夫が、全国的にどの程度流動したかを承ると、交通事情も良くなかったので、後期に承られるほど流動的ではなく、従って全国的な関係もそれほど密接だったとは思われない。因に、旧神岡鉱山の友子面附に現われた鉱夫の出身地を承ると、神岡鉱山の鉱夫の出身地は、飛騨地方に集中し、せいぜい越中、越前に一定数がふられるにとどまる。例えば明治二年の鹿間銅山の取立面附にみられる鉱夫の出身地は、第一○表のように、飛騨出身が七○・八%に達し、越前が一四・六%、越中が一二・九%である。このことから神岡鉱山は越前・越中鉱山との関連が強いということがわかる。他方幕末明治初年の福島県下の鉱山の鉱夫出身地を承ると、鉱夫の出身地は若干広域化しており、文久二年(一(肥)八六一一)の荒板沢鉛山の人別帳には、飛騨出身の四人家族の鉱夫が承られる。また明治六年(一八七三)の鱒沢鉱(⑲) 山の人別帳には、三河や近江、上州出身の鉱夫家族が承られる。このような傾向は、明治前期の友子制度が、現実に全国的関係を維持していたことを物語っている。また、明治初年代から一○年代にかげて、鉱夫不足に際して、鉱夫の争奪戦を演じた折、友子制度が坑夫募集の共通のチャンネルとなったことは、後に承るように友子制度が、全国的性格をjもつことを示すだけでなく、一般的に労働力の需給関係を調整するという機能をもっていることを如

次に周辺地域内の友子の単位組織間の関係をふることにしよう。|般的にゑて、周辺地域間の単位友子組織は、お互に密接な関係をもっていた。例えば、明治二年の鹿間鉱山の取立面附の立会人として「漆山山内、大留山内、

49明治期における友子の組織と機能(上)

北平山内、前平山内」の記述があり、取立式に各山の友子の代表が列席したことを示している。この立会人の機能は、後の資料に徴するに、一つは、取立式への祝儀を持参し、一つは、取立が慣行通りに行なわれているかどうかを確認することであった。明治一○年以降の長棟鉱山の友子資料は、周辺の単位友子組織が密接な関係をもっていたことをよく示している。後に詳しく検討するように、長棟の清五郎坑の取立式には、茂住村の広川鉱山、池之山、長棟村の鉄山、鉛山から立会人が参加し、合計一円六五銭の祝儀を出している。それは取立式の総支出の二五%を占めているほどである。なお、明治前期には、これら周辺友子組織間には、組織的な関連を見出せないが、明治後期になると、組織を統合する試承が承られるようになる。この点は、後の問題なのでここでは立入らないでおこう。わたり最後に友子組織の一一つの形態、渡友子と自友子(地友子とも書く)の問題についてふれておきたい。明治末期から大正期にかけて、友子の組織に渡坑夫の友子と目坑夫の友子の二つの組織形態の存在が認められる。しかし、この形態的な区別は、何時頃生れ、具体的にどのようなものかは一般に明らかではない。例えば、農商務省の『友子同盟二関スル調査』は「交際坑夫二渡坑夫自坑夫の別アリ」と云っているが、「其ノ起源及現在ノ区別ニッキテハ(別)種々ノ説アリ」としつつも説得的な論述を行なってはいない。(皿)左合氏の指摘するごとく、通常「東国は渡坑夫、西国は自坑夫」といわれるが、管見する限りでは、もともと西国においては友子の自渡の名称上の区別はなされていず、単に友子と呼称されるにとどまっている。ただし西国の

友子組織は、形態的にゑて東北に承られる自友子に近い。これに対し、東北以北では、目友子と渡友子の二形態が

存在しており、東国は渡友子であるとはいえないのである。

自渡両友子の比較については、友子の地域的な特質との問題とも併せて、明治後期の友子組織の検討の際に論ず

50

ることにして、ここで』

検討するにとどめたい。しかし明治末期以降においても、渡友子と自友子の区別は、資料的にはあまりはっきりせず、通常区別として主

張されている点は、第一に、渡坑夫は、生国を「××国産」と書き、自坑夫は「××国住人」と書く、第二に渡坑夫は兄分を持つ場合、これを依母兄(異母兄)あるいは依母弟、舎弟などと書くが、目坑夫は、兄分とか職兄あるいは弟分などと書く、ということである。以上は基本的傾向として認められる。第三に、渡坑夫は親分の扶養義務があり、親分が死亡した際には一年以内に仏参の義務もあり、自坑夫にはそれらの義務はない、第四に渡坑夫は、(犯)生涯独身にして無妻帯であるが、自坑夫は異なるともいわれる。しかし第三、第四の問題については、大きな疑問がある。第四についてはむしろ事実と大きく異っている。第三についても、一般に西国では友子の墓はあまりふられないが、東北では自友子親分の墓を建てているので、基本的指標としてはあいまいである。ただし、渡友子には仏参の義務を規定している規約もあり自友子にはそれがない。そこで主に第一と第二の指標を基に、明治前期における友子組織の二形態の区別の存在を検討してふたい。最も資料の多い旧神岡鉱山における明治前期の友子資料では、文面上自渡の区別をしたものは皆無である。取立面附の文面では、「××国住人」とあり、依母兄などの用語は全くなく、神岡鉱山の友子は、形態的には自友子に近いことがわかる。明治後期以後も同様である。ただしすでに指摘したように、安政六年の和佐保鉱山の「坑夫取立面附」には、はっきりと、「××産」の親分

と「××国住」の親分が区別されており、しかも、「××産」も「××国住」も親分の出身地は、飛騨の地元と他(羽)国とがあり、地域的に著しい片寄りがない。ただし、××産の親分一五人中三人が飛騨出身で、領外が一二人、こ ここでは、明治前期に果して友子組織に自渡の二形態の区別が存在していたかどうかについての承

51明治期における友子の組織と機能(上)

れに対して××住の親分一一一九人中は飛騨が二九人、領外が九人で、渡友子と思われる坑夫に領外が多いことがはっきりわかる。この区別が自渡友子を意味するとすれば、友子の二形態はすでに呼び名はともかくも成立していたようにも思われる。あるいは、坑夫の形態に渡坑夫と自坑夫の区別にとどまっていたのかも知れないが。明治前期について承る限り、他の鉱山の資料においても自渡の区別をした資料はない。しかし東北地方の諸鉱山における墓石をふると、やはり明治前期の友子には自渡の指標の区別はふられる。すなわち東北の諸鉱山には、友子の関係を示す墓と思われるものが、古くは徳川末期から明治前期にかけてのものが承られる。しかしそれらは一様に、例えば「明治十年羽後富田幾蔵」の墓、「子分秋田畠山大助」建立という形式で、自渡の区別をする指標はよられない。しかし明治二一年の院内鉱山の「守谷久吉」の墓には「子分秋田久作」などの名と並んで(皿)「依母舎弟秋田四石之助」という刻印があり、渡友子特有の呼称がふられる。大葛鉱山の明治一八年の「秋田出(お)生金三郎」の墓には、「子分仙台出生亀治」のほか「舎弟秋田出生安□」などの刻印のあるものがある。従って私は、東北地方には、すでに明治前期には、目友子と渡友子の区別は形成されていたのではないかとも考える。しかし西国についていえば、明治末期以後も両組織の区別にふられず、明治前期にも当然両者の区別はふられなかったと思われる。自渡の両友子組織の問題については、ここではこれくらいにとどめたい。

回の⑥の注(1)松島静雄『友子の社会学的考察』、第三章を参照。(2)取立に参加した鉱夫数は、一○六名の親分と同数の子分合せて一一一一一名と中老六名、世話人一二名であるが、うち親分となっている屯の各二名づつ四名をさし引くと一六名であり、合計一三八名となる。(3)『神岡鉱山史』、六三五頁。(4)同上、六三五’八頁を参照。また山崎徳次郎の『日記』には、明治一○年の取立に各坑の立会人が出席していることを記

ドキュメント内 著者 村串 仁三郎 (ページ 48-77)

関連したドキュメント